文学ガールじゃないけれど

本読んで感想書いていきます

それでも夜は明ける

それでも夜は明ける」監督:スティーブ・マックイーン

 

 本当は前々回のウェーバー感想の流れで、ダンカン・ワッツの「偶然の科学」について書こうと思ってたんだけど、なかなか読み終わらないので今回は映画の話題です。

それでも夜は明ける(原題:12 years a slave)」は、南北戦争前のアメリカが舞台。日本はこの頃まだ江戸時代末期なんですね。主人公のソロモンは黒人だけど奴隷扱いはされない「自由黒人」。妻子もあり音楽家として幸せに暮らしていたが、ある日奴隷商人に騙されて、南部の農園に奴隷として売られてしまい、12年間奴隷として働いた、という実話に基づくお話。

 

 この映画を観てるあいだ、ずっと2人の人物に交互に感情移入しながらストーリーを追っていた。1人は奴隷状態に置かれている主人公のソロモン。もう1つは奴隷を使役する立場の農園主エップス。

 

 まずソロモンの経験を追体験していて感じたのが、あまりに理不尽な状況に置かれると、そこから抜け出そうとするより支配者の思想に染まる方を選んでしまうんだ、ということ。何のこっちゃ伝わらないかもしれないが、奴隷のソロモンやパッツィのように毎日綿花を摘まされ、掘っ建て小屋に雑魚寝で、綿花の積む量が少なかったら鞭打ち、口答えしたら鞭打ち、真夜中にたたき起こされてナゾの踊りを踊らされる、主人の慰み者にされても抵抗できない、という状況に置かれたら。自分はどう感じるんだろう、ということ。

 

 きっと、農園主も自分も同じ人間なのに、奴隷だからと言って自分だけそんな仕打ちを受けることを、理不尽だと感じるだろう。理不尽さが悔しくて、苦しいだろう。さぞ農園主が憎らしいだろう、と映画を観る前は考えていた。でも、ただ映画を観ているだけで、映画館のちゃんとした椅子に座って映像として奴隷の様子を観ているだけで、理不尽だと感じる感覚がどんどん麻痺していくのがわかった。もちろん最初は、あまりの理不尽さに終始怒りが湧いてくる。農園主も憎い。でもその状況が延々つづくと、だんだん怒ることに疲れてきてしまう。同時に、自分は奴隷なのだから。奴隷はひどい主人に仕えたら運の尽き、と考えるようになる。自分は人間ではないと、むしろ進んで考えるようになる。そのほうが楽だからとか、そういう打算的な考えがあってのことではなく、例えるなら、バイオハザードをずっと観ているとだんだんゾンビが一体出てきたくらいでは驚かなくなるような感じで、自然に自分の思想が変わっていってしまう。そして最後には頭が空っぽになって、もう先のこととか理屈とか考えられないけど、痛いとか悲しいとか、そういう感情だけがぼんやり頭に詰まっているような、そういう状態になってしまうんだろう。本当に絶望した状態ってこういうことか。

 

 映画を観終わって、映画館を出て、奴隷制度なんかとっくの昔に否定されている現代社会に戻ってはじめて、自分が支配される側の精神構造になっていたことに気付いたけれど、やっぱり奴隷が自ら置かれた状況を改善するために声を上げるとか、反抗するとか、脱走計画を立てるとか、そういうのは常人には到底無理だと思った。そして、もう奴隷制度はないけれど、時々起きる凄惨な事件(北九州の一家殺人事件とか、ひどいDV事件とか)で被害者が、傍から見ればなぜもっと全力で逃げようとしなかったのか、というのもこれと同じような話ではないかと思う。

 

 ちょっと長くなってしまったので、農園主エップスに感情移入した話はまた次回。

                               <続く>

世界の果ての通学路

「世界の果ての通学路」 監督:パスカル・プリッソン

 

 フランス人監督によるドキュメンタリー映画。「世界には、学校に行くために想像を絶する道のりを、毎日通っている子供たちがいる。彼らはなぜ命懸けで、毎朝学校に向かうのだろう?」

 ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドの4カ国の子供たちが出てきます。

 この映画に出てくる子供たちは皆、とても素晴らしい。学びたいという強い意志と、現実に基づいたしっかりした考えと、子供らしい希望と、そして身近な兄妹・友人への思いやりを持っている。

 こういう子供たちの姿を見ると、よく感想として言われるのが「私たちは彼らから学ばなければならない」という言葉。

 でも、この言葉にはずっと違和感があった。だって一体何を学ぶの?勉強する機会があることの大切さだろうか。希望を忘れずに目の前の困難を乗り越えることの大切さだろうか。勉強したいという意欲の素晴らしさだろうか。

 そんなこと位、この映画を観なくたってきっと皆わかってるんじゃないだろうか。だって「希望を持つことが素晴らしいことだなんて、今まで一度も思ってもみませんでした」なんて人いる?

 たしかに、普段は忘れがちだからこの映画を見ることによって、大切なものを再認識する、ということはあるかもしれない。でも、じゃあなぜ普段は忘れてしまうのかということを考えない限り、何回再認識したところできっとまた忘れてしまう。同じことの繰り返しだ。

 勉強できる機会。勉強したいという意欲。希望を持つこと。

 大切だとわかっているのにどうして普段はそのことを忘れるのか。忘れるという表現は適当でないかもしれない。どうして普段はそれが大切だと思えないのか。

 たとえば「たくさん勉強して、いい仕事について、家族に楽をさせてあげたい」というセリフ。これは今回の映画でも出てくるし、テレビの発展途上国の子供たちのドキュメンタリーなんかでもよく聞く言葉だ。でも、日本の小学生からはこういうセリフをまず聞かない。それはどうしてだろうか。日本の子供たちが「大切なものを忘れている」からなのだろうか。日本の子供たちは、こういった言葉から「学ぶ」べきなんだろうか。それは若干的外れだと私は思う。

 だって、普段日本の子供たちが周り(主に大人)から要求されているのは、もっと別なことばかりでしょう?小学校に入るときに「たくさん勉強して一番になれ」と送り出される子供より、「たくさん友達を作りなさい」と送り出される子供の方が多いんじゃないだろうか。学校の先生から「良い仕事につくためにもっと勉強しなさい」と言われることより、「クラスの皆と仲良くしなさい」と言われることのほうが多いんじゃないだろうか。

 加えて、いじめが問題になることが多いのが日本社会の現状だ。学校にいる間、授業の内容よりもクラス内での人間関係により神経を使わなければならない子供も、多いのではないだろうか。

 そう考えると、日本の子供たちに、今回の映画に出てくるような子供たちの姿勢から学べ、とはとてもじゃないが言えない。日本の子供は日本の子供で、置かれた環境に必死に適応した結果が現状なんだし、途上国の子供たちを見るたびに「大事なことを忘れていた」と言う私たちも、今自分がいる社会に適応しようと必死に生きた結果がそれなのだから。

 勉強することを素晴らしいと感じられない、希望を持てない、家族や友人を思いやれない。そういう事を「個人が大事なことを忘れているから」と、個人の姿勢の問題にしていくのではなく、個人がそうならざるを得ない背景には常に、その個人に無言のメッセージを発している社会というものがあるんだということを意識していきたい、というのが今回の映画を見た私の感想です。

いつから勤勉は美徳になったか

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神マックス・ウェーバー著 大塚久雄訳 (岩波文庫

 

 小飼弾の本で、プログラマ美徳(短気・怠惰・傲慢)について言及があったが、それを読んだときに思い出したのが、ウェーバーの本書。大学時代に読んだっきりで、もう数年間読み返していなかった。細かい論理展開とかはほとんど忘れているので、本当は感想を書く前に読み直さないといけないんだけど、とりあえず当時の記憶を頼りに書いていく。

 

 勤勉は、今も当たり前のように美徳とされている。朝は上司の誰よりも早く出勤し、サービス残業を厭わず、休日も「仕事のため」に十分な休養を取ったら残りの時間はスキルアップのために有効に使う、などなど。強制の度合いが多かれ少なかれ、勤勉な態度を見せろという圧力は、働く人なら誰でも感じているだろう。

 じゃあ人類は縄文時代、イノシシやシカを追いかけていた頃からずっと、勤勉こそ善だと考えてきたのだろうか。実はそうではなく、今の資本主義体制の下で求められている勤勉さは、もとをたどればキリスト教徒(なかでもプロテスタント)が持っていた宗教的性格そのものなのだ。プロテスタントの禁欲的で勤勉な性格が、資本主義ととても親和性が高く、その結果資本主義が発展し、今の社会ができた、というような話をウェーバーはしている・・・はず。きっと。

 

 勤勉が美徳というのは、普遍的な常識ではなく、「※ただし資本主義発展の観点から」みたいな、注意書き付きの信仰なのだ。今はやりの、女子は頭なでなでを喜ぶ(※ただしイケメンに限る)みたいなものかと思うと、自分が信じている常識の脆さに驚いてしまう。「勤勉=美徳」以外にも、自分がなにげなく常識だと思っていることを、一度総点検してみたい気持ちになってきた。

  それにしてもこの常識をひっくり返される快感、何かに似てると思ったら、少し前流行ったドラマ「リーガルハイ」の古美門先生を観たときの快感にそっくりだ。そういえば古美門先生も、常識をバッサバッサひっくり返してくれたっけ。

 

<追記>

 もし今後、ハウスワイフ2.0現象が世界的に広まることがあったら、「モルモン教徒の倫理とハウスワイフ2.0の精神」は私が書こう♪

 モルモン教徒はプロテスタントと違って母数が少ないけど。もしもモルモン教徒の母数がプロテスタント並にあったら、彼らの信仰と親和性の高いハウスワイフ2.0現象って、もっと爆発的に広まったりしたんだろうか・・・。

 

 

非効率が「正解」なこともある

小飼弾の「仕組み」進化論』小飼弾 日本実業出版

 

 今回は本書の最終章「仕組みの未来」を読んでの感想。

 

 よく「これからの社会のあり方」について語る時に言われるのが、「大量生産・大量消費型社会はもう終わった」というフレーズ。これが今まで、いまいちピンと来なかった。だって、もう終わったと言われても現にマクドナルドもユニクロ吉野家も、日常に無くてはならない存在だし、家の近くでは某家電メーカーの工場が、今日も大量に商品を作っては出荷してるし・・・。

 本書では、世界がもし100人の村だったらを援用して、現代の資本主義経済の仕組みを説明している。曰く、今は100人の人間が生きるのに必要なものは10人の人間で作り出せる。だから90人が仕事にあぶれ、彼らはカネを持っていないので結果全体の経済が回らなくなる、とのこと。この説明なら、何となくピンとくる。

 

 今ある価値観が、今後変容していくとしたら、その一つに「効率の追求」があるんじゃないだろうか。今までずっと、効率化すること、生産性を高めることは絶対的な善とされてきた。でも、これからはあえて非効率な状態を留めておくことも必要になってくるかもしれない。

 例えば本書で出てきたように、ワークシェアリング。一人でずっと作業したほうが効率的だったとしても、あえてその仕事を二人で分ける。生産性の観点だけで考えたらありえない事だけど、職場の多様性とか、そもそも「職に就くことは人の権利」とか考えると、シェアした方が正しい。個人的にもシェアしたい。今の半分の給料になっていいから、正社員の立場はこのままで労働時間を半分にできたら最高だ。

 

 で、空いた時間でロハスな生活を送る、とかだと、何となくローマ帝国末期を彷彿とさせてしまうんだけど、本書では空いた余裕で「新しい仕組み」作りを提案している。その作るべき「新しい仕組み」が何なのか、ということは、私はプログラマでもないし、時代の先端を行くほどの頭もないし、そもそも新しいものを作ろうと意識したことが少ないので、まだ具体的に想像できない。でも、型通りのメンドくさい作業から開放されたらやってみたいこと、作ってみたいコトはぼんやりと持っている。今後の生活で、そっちの方にももっと時間を割けるようになるなら、それはきっと幸せだと思う。

 

 最近には珍しく、未来に希望が持てるようになる本だった。

小飼弾の「仕組み」進化論ープログラマの三大美徳

小飼弾の「仕組み」進化論』小飼弾(日本実業出版社)

 

 小飼弾さんを全く知らずに、知り合いが読んでたからという理由で読んでみた。

 「仕組み」というキーワードには、私も少なからず思い入れがある。高校生の時、それまで全く興味のなかった経済、政治、社会のあり方について、ふとしたきっかけで興味を持つようになって、その時に「社会はいろんな仕組みが合わさってできているんだ」と単純に驚いた覚えがある。そして、仕組みをつくることによって個人の力では影響の及ばないような広範囲にまで関わることができる、善意やボランティアだけでは助けられないような人でも新しい仕組みを作ることで助けることができるかもしれない、と想像することが面白くて、ますます社会科学の分野に興味をもった。

 

 本の内容に戻ると、ここで書かれている「仕組み」はそういう「世の中の仕組み」のことではなく、どちらかというと自己啓発書のような文脈で「仕事の仕組み」が語られていた。と言っても、出世するために早起きしろとか、新聞を読めとか、そういう類の内容ではなかった。

 心に残ったのは、Part2の「プログラマの三大美徳」とPart6の「仕組みの未来」。まず「プログラマの三大美徳」が怠惰・短気・傲慢だと言うことは聞いていたけど、これは自分はプログラマじゃないから関係ないと思っていた。そして、今まで働くということは、組織に採用されて、決められた出社時間にその場所まで行って、目の前にあることをやって、終わったら帰ってくること、という位にしか思っていなかった。仕事のやり方はもう私が入社する何年も前から決まっていて、そのやり方に対して疑問を持つことは全く無かったんだけど、疑問に思っていいんだ、と考えてみたら、やっぱりと~~っても非効率なやり方だと再認識。(効率追求以外に諸事情があってこのやり方じゃないとダメなんだけど)毎日心のどこかで「メンドくさいなぁ」と思いながら作業していて、仕事なんだからそんなこと思ってはいけないと否定していたけど、やっぱり正常な感覚だったんだ。

 仕事のやり方の大枠は、変えられないところが多い。でも、「メンドくさい」という気持ちは押し込めるべきものではなくて、もっと自分がメンドくさくなく働けるように、工夫できるところはどんどんやり方を試していこうと思うと、単調な仕事でもすこしだけメンドくさくなく思えてくる。

 ・・・さっきからどんだけ仕事がメンドくさいんだ自分。

 

 それから、最終章の「仕組みの未来」。時間がないのでここで一旦切ろう。

                                  <続く>

ニートの歩き方

ニートの歩き方」pha 技術評論社

 

 まず、裏表紙のニートチェックシートをやってみたら16コ中8コも当てはまって若干ニートへの親和性が高かった自分・・・。あと、phaさんは社会学の研究者に向いてそう。

 

 それはおいといて、この本で紹介されているニート生活は「ハウスワイフ2.0」で紹介されている新しい専業主婦生活によく似ている。どこが似ているかと言うと、例えば一昔前と違って個人がネットでつながれる時代だから可能になったライフスタイル、って所とか。あえて会社(正社員)を辞めて手作り節約生活する所とか。まあ、phaさんのニート生活の方がハウスワイフ生活よりハードル高そうだけど。

 

 あとは、私の知らない世界のことがたくさん書いてあっておもしろかった。たとえば治験とか。20代、30代の男性の募集が多いとか、海外でも日本人向けの治験があるとか知らなかった。やる予定ないけど。

 あと、ウェブ業界は自由な社風のところが多いから出社時間が選べる会社もある、とか。もし死ぬほど早起きが苦手な人が、「朝早く起きなくていい」っていう条件だけで仕事を探したとしても、意外とそんな会社も見つかるんだろうな。やる予定はないけど。

 

 こういう風に、自分がやる予定はなくても、社会の中にいろんな価値観や選択肢があるというのは、それだけでとても助かることだ。女の子の生き方だって、専業主婦しかなかった時代から専業主婦かバリキャリの二択の時代を経て、昔ながらの専業主婦や在宅で手作り雑貨とかを売っておこづかい稼ぎする主婦や、正社員だけど短めに働く主婦や、フルタイムで働く主婦etc...の中から自由に選べるような時代が来るだろうか。

 実際にネットを通じた雑貨販売がお金になるかとか、phaさんのような収入の得方をできるか、と言われたら難しいと思う、そういうので生計を立てられるのは氷山の一角の人達だけ。でもそういう氷山の一角の人達が存在する意義は、同じようなやり方で稼ごうとする追随者を生むことではなく、こういう生き方もありますよ、という新しい価値観を世の中にプラスすることにこそあると思う。

 

 だから私は、同じような生き方をする予定はないけど、phaさんやハウスワイフ2.0と呼ばれる人達の生活をもっと知りたい。自分とは違った生活を見聞きすることで、心にもっと余裕が生まれる気がする。

ハウスワイフ2.0

エミリー・マッチャー著「ハウスワイフ2.0」(文藝春秋


 著者はハーバード大学を出たけれど、就職氷河期のためノースカロライナ大学の疫学研究室に就職。今は自身もハウスワイフ2.0、という女性(美人!)。最初2.0って何やねんと思ったけれど、どうやら「新しい」専業主婦という意味らしい。
 内容としては、今アメリカで一流大学を出た優秀な女性が、次々と専業主婦になっている。ハードな仕事を辞め、お菓子から調味料から雑貨までなんでも手作りして、自分のライフスタイルをブログで発信していく彼女たちは新時代の主婦(ハウスワイフ2.0)だ・・・、というような話。

 私の実感では、「専業主婦になりたい」願望を持つ女の子って、そんなに珍しい存在ではないんだけど・・・。むしろ皆専業主婦になりたいけど、そんなに稼いで来てくれる旦那さん、なかなかいないよねぇ~・・・仕方ない働こう、っていう雰囲気なんだけど。と、ここまできて自分は特に一流大学に通っていたわけではないことに気付く。層が違う、層が・・・。
 ここで話題になっているのは「やりがいのある仕事に就ける」はずの「一流大学の」女性が、専業主婦になりたがっている、っていうことなんだよね。

 私のような二流大学出の者にしてみるとハウスワイフ2.0は、共感しつつも、自分とは違うエリート層のお話に思える。
 まず、2.0だか1.0だか知らないけどハウスワイフ以前に、相手を見つけて結婚しなきゃ。
 それから、仕事についても、やりがいとか仕事を通じての自己実現とか、そんなこと最初から考えていない。仕事は、社会の中での自分の身分を安定させて、お金をもらうためのもの。職場での出世とか、社会への貢献とかよりも、数多いる無責任社員にどう仕事を押し付けられることなく、メンタルになることなく日々を乗り切るかが一番の関心事。
 社会人2年目になってこんな世知辛いことを書いている私でも、大学生の頃はもう少し青かった。社会の問題を解決したいとか、困ってる人を助けたいとか思っていたんだけど、今から思うとどれもこれも考えがいまひとつ足りなかったんだよね。

 いろいろ自分とは違うと思いながらも「ハウスワイフ2.0」を楽しく読めたのは、ただ「専業主婦になりたい人が増えている」という報告だけにとどまらず、じゃあ私はどういう生き方がしたいのかを問いかけてくる本だったからだと思う。昔みたいに女は専業主婦になるべきだ、とか、逆に女も外でバリバリ仕事して役職者を目指すべきだ、とか、そういう圧力も模範ももう無い時代に、なにを目指して生きていこうかと、社会に出てからも迷う点では、ハーバード大卒のステキ女子も、二流大卒の私も一緒だと思う。(多分)
 あぁ、どうしよっかなぁ。
 とりあえず、おもしろい本を探して読む時間と、それをもとにいろいろ考える時間はこれからも確保できたらいいけど・・・。