文学ガールじゃないけれど

本読んで感想書いていきます

世界の果ての通学路

「世界の果ての通学路」 監督:パスカル・プリッソン

 

 フランス人監督によるドキュメンタリー映画。「世界には、学校に行くために想像を絶する道のりを、毎日通っている子供たちがいる。彼らはなぜ命懸けで、毎朝学校に向かうのだろう?」

 ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドの4カ国の子供たちが出てきます。

 この映画に出てくる子供たちは皆、とても素晴らしい。学びたいという強い意志と、現実に基づいたしっかりした考えと、子供らしい希望と、そして身近な兄妹・友人への思いやりを持っている。

 こういう子供たちの姿を見ると、よく感想として言われるのが「私たちは彼らから学ばなければならない」という言葉。

 でも、この言葉にはずっと違和感があった。だって一体何を学ぶの?勉強する機会があることの大切さだろうか。希望を忘れずに目の前の困難を乗り越えることの大切さだろうか。勉強したいという意欲の素晴らしさだろうか。

 そんなこと位、この映画を観なくたってきっと皆わかってるんじゃないだろうか。だって「希望を持つことが素晴らしいことだなんて、今まで一度も思ってもみませんでした」なんて人いる?

 たしかに、普段は忘れがちだからこの映画を見ることによって、大切なものを再認識する、ということはあるかもしれない。でも、じゃあなぜ普段は忘れてしまうのかということを考えない限り、何回再認識したところできっとまた忘れてしまう。同じことの繰り返しだ。

 勉強できる機会。勉強したいという意欲。希望を持つこと。

 大切だとわかっているのにどうして普段はそのことを忘れるのか。忘れるという表現は適当でないかもしれない。どうして普段はそれが大切だと思えないのか。

 たとえば「たくさん勉強して、いい仕事について、家族に楽をさせてあげたい」というセリフ。これは今回の映画でも出てくるし、テレビの発展途上国の子供たちのドキュメンタリーなんかでもよく聞く言葉だ。でも、日本の小学生からはこういうセリフをまず聞かない。それはどうしてだろうか。日本の子供たちが「大切なものを忘れている」からなのだろうか。日本の子供たちは、こういった言葉から「学ぶ」べきなんだろうか。それは若干的外れだと私は思う。

 だって、普段日本の子供たちが周り(主に大人)から要求されているのは、もっと別なことばかりでしょう?小学校に入るときに「たくさん勉強して一番になれ」と送り出される子供より、「たくさん友達を作りなさい」と送り出される子供の方が多いんじゃないだろうか。学校の先生から「良い仕事につくためにもっと勉強しなさい」と言われることより、「クラスの皆と仲良くしなさい」と言われることのほうが多いんじゃないだろうか。

 加えて、いじめが問題になることが多いのが日本社会の現状だ。学校にいる間、授業の内容よりもクラス内での人間関係により神経を使わなければならない子供も、多いのではないだろうか。

 そう考えると、日本の子供たちに、今回の映画に出てくるような子供たちの姿勢から学べ、とはとてもじゃないが言えない。日本の子供は日本の子供で、置かれた環境に必死に適応した結果が現状なんだし、途上国の子供たちを見るたびに「大事なことを忘れていた」と言う私たちも、今自分がいる社会に適応しようと必死に生きた結果がそれなのだから。

 勉強することを素晴らしいと感じられない、希望を持てない、家族や友人を思いやれない。そういう事を「個人が大事なことを忘れているから」と、個人の姿勢の問題にしていくのではなく、個人がそうならざるを得ない背景には常に、その個人に無言のメッセージを発している社会というものがあるんだということを意識していきたい、というのが今回の映画を見た私の感想です。